☆最初に関係ない話。
今、自殺した韓国の女優が「性接待」に供されたニュースが話題になっていて、そのニュースを聞くと、私など非常に不愉快な思いになる。
で、その不愉快な思い(ストレス)ってのが、私が批判した『白夜行』の東野圭吾の作品テーマの数々とダブるんですよね。
上記のニュースなんて、ポルノ小説ならばいいが、現実のことだから、暗澹たる気分にさせられるし、東野圭吾のように一般小説にすべき内容じゃないんだよね。
では本題↓(しかし、まだ『ヒアアフター』も『ナルニア3』も『フォックスと呼ばれた男』も見てないよ^^;)
◇
こ・れ・は、奇妙な映画であった。
内容は、ローマ帝国末期の時代に、エジプトはアレキサンドリアに実在したと言う哲学者(この頃の科学者は哲学者と同義)、女性であるヒュパティア(レイチェル・ワイズ)が主人公の物語だ。
古来からの宗教と新興の宗教の争い、そして、着々とキリスト教が社会を支配していく時代が描かれる。
知を武器に、かつての教え子であるアレキサンドリア長官やキリスト教平(ヒラ)主教、元奴隷の修道兵士らと絡みつつ、神の名を借りたリーダー主教の横暴に哲学を通そうとしていくのだが・・・。
内容はありきたりで、おそらく、歴史上のヒュパティアは、余程の書籍でも、数行の情報しかない人物であろうから、凡百の作品になり得ただろう。
しかし、私は、観始めたとき、この作品は「グラフィック・ノベル」が原作なのかな? と思ってしまうほどに、フィクションの舞台設定に緻密なリアリティが施されていた。
レイチェル・ワイズは真摯な天文学者を美しくもうまく演じていた。
・・・物語の視点は、地球の俯瞰から始まり、北部アフリカ大陸、エジプトはアレキサンドリアにズームアップしていく。
その、意味を問われれば疑問も起こる演出なのだが、私などは何故だが圧倒される。
アレキサンドリア市街のビジュアルイメージも、全くちゃちさがなく、冒頭の市場の描写なんて、夢中で見てしまう。
地球俯瞰の図は、作中で何度も繰り返され、事件のサウンドだけは地球を背景に聞えてくる。
なんか、効果抜群だ^^
その演出は、ヒュパティアの天文学の研究の意味もあり、神の視点さえも暗示していよう。
取り立ててヒロイックなアクションのある作品ではなく、薄味にも思える、されど、なかなか強烈な描写のある宗教戦争が描かれるが、面白いのはそこではなく、いかにもその時代の常識の如く描いた状況や表現が楽しかった。
例えば、屋外劇場や、ヒュパティアがプロポーズを断る「ハンカチ」の逸話、図書館の本棚の描写などなど、
また、「祈りのやり方を教えてやる」のセリフに代表される、新たな物語への興味の引き方など、実に楽しい。
この時代の剣が「斬る」ではなく「叩く」ものであることの強調もいい。
役者たちも力の入った演技で、そこに付加された個性も一元論では括れない。
スタローン顔のアレキサンドリア長官は(オスカー・アイザック)、ボンボンなだけではなく、利発で勇敢。
ブラッド・ピット顔のキリスト教平(ヒラ)主教(ルパート・エヴァンス)は、非常に物事を客観視できる優男なれど、神の教えには忠実。
イケメンの元奴隷の修道兵士(マックス・ミンゲラ)は、ヒュパティアへの敬愛と恋愛感情の狭間で狂う。
そのような演技の数々が、見事な舞台設定の中で活きまくる。
火渡りの奇跡を起こした修道兵士、キリスト顔のリーダー主教、ヒュパティアのもとの初老の奴隷・・・、いちいち興味深く、面白いのだ。
大きな宗教変格の時代のうねりが描かれるが、そこが主題ではなく、この監督は、そんな時代の中での、人と人のつながりの起伏を描きたかったんだなぁと納得できるのだ。
◇
なお、この作品では、数人の「奴隷」が描かれるが、この時代の「奴隷」とは、古代日本において、支配者の墳墓を造成するのに必要とされた時の労働者のように、ちゃんと賃金を支払われたサラリーマン的な存在であることが分かろう。
「奴隷」と言っても、左翼の妄想上にあるイメージとは全く違うのである。
この作品では、ヒュパティアに従う奴隷たちが、実に聡明で、主人の良き協力者であることが分かる^^
(2011/03/10)
今、自殺した韓国の女優が「性接待」に供されたニュースが話題になっていて、そのニュースを聞くと、私など非常に不愉快な思いになる。
で、その不愉快な思い(ストレス)ってのが、私が批判した『白夜行』の東野圭吾の作品テーマの数々とダブるんですよね。
上記のニュースなんて、ポルノ小説ならばいいが、現実のことだから、暗澹たる気分にさせられるし、東野圭吾のように一般小説にすべき内容じゃないんだよね。
では本題↓(しかし、まだ『ヒアアフター』も『ナルニア3』も『フォックスと呼ばれた男』も見てないよ^^;)
◇
こ・れ・は、奇妙な映画であった。
内容は、ローマ帝国末期の時代に、エジプトはアレキサンドリアに実在したと言う哲学者(この頃の科学者は哲学者と同義)、女性であるヒュパティア(レイチェル・ワイズ)が主人公の物語だ。
古来からの宗教と新興の宗教の争い、そして、着々とキリスト教が社会を支配していく時代が描かれる。
知を武器に、かつての教え子であるアレキサンドリア長官やキリスト教平(ヒラ)主教、元奴隷の修道兵士らと絡みつつ、神の名を借りたリーダー主教の横暴に哲学を通そうとしていくのだが・・・。
内容はありきたりで、おそらく、歴史上のヒュパティアは、余程の書籍でも、数行の情報しかない人物であろうから、凡百の作品になり得ただろう。
しかし、私は、観始めたとき、この作品は「グラフィック・ノベル」が原作なのかな? と思ってしまうほどに、フィクションの舞台設定に緻密なリアリティが施されていた。
レイチェル・ワイズは真摯な天文学者を美しくもうまく演じていた。
・・・物語の視点は、地球の俯瞰から始まり、北部アフリカ大陸、エジプトはアレキサンドリアにズームアップしていく。
その、意味を問われれば疑問も起こる演出なのだが、私などは何故だが圧倒される。
アレキサンドリア市街のビジュアルイメージも、全くちゃちさがなく、冒頭の市場の描写なんて、夢中で見てしまう。
地球俯瞰の図は、作中で何度も繰り返され、事件のサウンドだけは地球を背景に聞えてくる。
なんか、効果抜群だ^^
その演出は、ヒュパティアの天文学の研究の意味もあり、神の視点さえも暗示していよう。
取り立ててヒロイックなアクションのある作品ではなく、薄味にも思える、されど、なかなか強烈な描写のある宗教戦争が描かれるが、面白いのはそこではなく、いかにもその時代の常識の如く描いた状況や表現が楽しかった。
例えば、屋外劇場や、ヒュパティアがプロポーズを断る「ハンカチ」の逸話、図書館の本棚の描写などなど、
また、「祈りのやり方を教えてやる」のセリフに代表される、新たな物語への興味の引き方など、実に楽しい。
この時代の剣が「斬る」ではなく「叩く」ものであることの強調もいい。
役者たちも力の入った演技で、そこに付加された個性も一元論では括れない。
スタローン顔のアレキサンドリア長官は(オスカー・アイザック)、ボンボンなだけではなく、利発で勇敢。
ブラッド・ピット顔のキリスト教平(ヒラ)主教(ルパート・エヴァンス)は、非常に物事を客観視できる優男なれど、神の教えには忠実。
イケメンの元奴隷の修道兵士(マックス・ミンゲラ)は、ヒュパティアへの敬愛と恋愛感情の狭間で狂う。
そのような演技の数々が、見事な舞台設定の中で活きまくる。
火渡りの奇跡を起こした修道兵士、キリスト顔のリーダー主教、ヒュパティアのもとの初老の奴隷・・・、いちいち興味深く、面白いのだ。
大きな宗教変格の時代のうねりが描かれるが、そこが主題ではなく、この監督は、そんな時代の中での、人と人のつながりの起伏を描きたかったんだなぁと納得できるのだ。
◇
なお、この作品では、数人の「奴隷」が描かれるが、この時代の「奴隷」とは、古代日本において、支配者の墳墓を造成するのに必要とされた時の労働者のように、ちゃんと賃金を支払われたサラリーマン的な存在であることが分かろう。
「奴隷」と言っても、左翼の妄想上にあるイメージとは全く違うのである。
この作品では、ヒュパティアに従う奴隷たちが、実に聡明で、主人の良き協力者であることが分かる^^
(2011/03/10)