☆私の家には地デジが通っていないので、テレビが見れないわけだが、
ワイドショーネタになるような、幼児や赤ちゃんが犠牲になるような事件の報道を見ないで済むのは助かっている。
あの、琴音ちゃんの事件などは、まあ、誰もがわかっていたことだが、最初から母親の言動が怪しかった。
子供殺しは、極刑にすべきだと思うが、死刑にしても、死んでしまったものは戻らんのだよなぁ・・・。
山口の母子殺害事件も、もうすぐ最終の判決が出るようだ。
あの殺人者も死刑でいいだろう。
◇
話は全く変わる。
2月1日付の産経新聞の一面のコラム<【寒蛙と六鼠(かんがえるとむちゅう)】長辻象平 「致死ウイルスの足音」>が興味深かった。
本文を読みたい方は、上のタイトルをクリックして下さい。
さて、コラムは「H5N1」と言う、人間に感染する可能性もある強毒性の鳥インフルエンザのウィルスについて書いている。
このウィルスが、人と人の間での伝染性を獲得すると、世界的なパンデミックとなる。
だが、このウィルスは、研究者の間では人工合成もされていて、伝染性を獲得するメカニズムも解析されているのだそうだ。
その論文は発表されかけたが、「テロに利用される」との懸念から、アメリカ当局によって待ったがかけられている。
おって、1/20に、世界の科学者39人が、「H5N1」に関する研究を60日間停止すると言う声明を発表する。
抗議の意味ではないようだ。
このウィルスが、テロに利用されるのを恐れているからだ。
そして、コラムは「テロへの警戒と、人での大流行を防ぐ研究のバランスをどうとるか」と話を進めていく。
ここまで読んで、私は、「ああ、原子力研究のもつれと同じだ・・・」と思った。
すると、文章の後半に、やはり、原子力研究のジレンマへの言及があった。
・・・私は、原子力研究を…、原子力の平和利用を…、つまり、原子力発電をけしてやめてはいけないと考えている。
恐怖感に駆られつつも、したり顔で、「引き返さなくてはならないこともある」と脱原発を唱えるバカもいるが、そういうことをほざく者は、自分が…、と言うか、人類に限界があり、ひたすらに、諦めることを正しいと言ってるのと同じだ。
「諦めざるを得ない」と「諦める」は、その意味が全く違う。
そう、原子力発電は、今、まさに「風評被害」を受けている。
あれだけの大事故があったとされても、ただの一人も死者が出ていない、にもかかわらず、「絶対恐怖」のレッテルを根拠なく貼られてしまった。
かくして、原子力開発は、その研究をする事さえも「恐怖」の範疇に入れられ、
今後、数十年の「停滞」を余儀なくされよう。
しばらくは、「諦めざるを得ない」。
だが、研究だけは続けなくてはならない。
研究を続けなくては、今後、人類は永遠に原子力の恐怖を「克服」できなくなる。
「H5N1」ウィルスが、テロ(恐怖)に利用されようとも、それを意味のないことにする「ワクチン」の開発をするための研究だけは続けなくてはいけないようにだ。
◇
何やら、石原慎太郎が新党を作ろうと頑張っているが、私には、石原慎太郎にはバカなトコがあるし、第三局の中心にいる橋下弁護士も、私から見ると、非常に微妙だ。
自民党の議員の石原慎太郎の息子・伸晃は、「オヤジは利用されているのかも知れない・・・」と言っているそうだが、
石原慎太郎自身も、多分に、橋下・平沼赳夫らを利用していると思われるので、それはまあ、相互作用だ。
その慎太郎が、やはり、産経の一面で、いいコトを書いていた。
てゆーか、私が必死こいて主張し続けていることを、美しい流れで語ってくれている。
やっぱ、文章 上手いね。
《【日本よ】 石原慎太郎 「原発に関するセンチメントの愚」(2012.2.6)》
<・・・(前半略)・・・福島の原発事故以来かまびすしい原発廃止論の論拠なるものの多くの部分が放射線への恐怖というセンチメント(情念)に発していることの危うさだ。恐怖は何よりも強いセンチメントだろうが、しかしそれに駆られて文明を支える要因の原発を否定してしまうのは軽率を超えて危険な話だ。軽量の放射能に長期に晒(さら)される経験は人類にとって未曽有のものだけに、かつての原爆被爆のトラウマを背負って倍加される恐怖は頷けるが、しかしこうした際にこそ人間として備えた理性でものごとを判断する必要があろうに。理性的判断とはものごとを複合的に捉えてということだ。
ある期間を想定しその間我々がいかなる生活水準を求めるのか、それを保証するエネルギーを複合的にいかに担保するのかを斟酌計量もせずに、平和の内での豊穣な生活を求めながら、かつての原爆体験を背に原子力そのものを否定することがさながらある種の理念を実現するようなセンチメンタルな錯覚は結果として己の首を絞めることにもなりかねない。
人間の進化進歩は他の動物は及ばない人間のみによるさまざまな技術の開発改良によってもたらされた。その過程で失敗もありその超克があった。それは文明の原理で原子力もそれを証すものだ。そもそも太陽系宇宙にあっては地球を含む生命体は太陽の与える放射線によっても育まれてきたのだ。それを人為的に活用する術を人間は編み出してきた。その成果を一度の事故で否定し放棄していいのか、そうした行為は「人間が進歩することによって文明を築いてきたという近代の考え方を否定するものだ。人間が猿に戻ると言うこと−」と吉本隆明氏も指摘している。
人間だけが持つ英知の所産である原子力の活用を一度の事故で否定するのは、一見理念的なことに見えるが実はひ弱なセンチメントに駆られた野蛮な行為でしかありはしない。
日本と並んで原子力の活用で他に抜きんじているフランスと比べれば、世界最大の火山脈の上にあるというどの国に比べてももろく危険な日本の国土の地勢学的条件を斟酌せずにことを進めてきた原発当事者たちの杜撰(ずさん)さこそが欠陥であって、それをもって原子力そのものを否定してしまうのは無知に近い野蛮なものでしかありはしない。
豊かな生活を支えるエネルギー量に関する確たる計量も代案もなしに、人知の所産を頭から否定してかかる姿勢は社会全体にとって危険なものでしかない。>
◇
う〜む、隅から隅まで、私は首肯する^^
また、上記の主張の前半には、「・・・この世で恋愛は茶飯のことだから周囲はそれを常識の枠で捉え眺めて過ごそうとするが、ある人間にとってはそのセンチメントは枠からはみだして当人自身にも抑制がきかなくなってくる。・・・」などと言う表現もあって、うわぁ、うまい! と感嘆してしまうのだ。
人類は、「恐怖」と寄り添い、「克服」に至らなくてはならない。
(2012/02/07)
ワイドショーネタになるような、幼児や赤ちゃんが犠牲になるような事件の報道を見ないで済むのは助かっている。
あの、琴音ちゃんの事件などは、まあ、誰もがわかっていたことだが、最初から母親の言動が怪しかった。
子供殺しは、極刑にすべきだと思うが、死刑にしても、死んでしまったものは戻らんのだよなぁ・・・。
山口の母子殺害事件も、もうすぐ最終の判決が出るようだ。
あの殺人者も死刑でいいだろう。
◇
話は全く変わる。
2月1日付の産経新聞の一面のコラム<【寒蛙と六鼠(かんがえるとむちゅう)】長辻象平 「致死ウイルスの足音」>が興味深かった。
本文を読みたい方は、上のタイトルをクリックして下さい。
さて、コラムは「H5N1」と言う、人間に感染する可能性もある強毒性の鳥インフルエンザのウィルスについて書いている。
このウィルスが、人と人の間での伝染性を獲得すると、世界的なパンデミックとなる。
だが、このウィルスは、研究者の間では人工合成もされていて、伝染性を獲得するメカニズムも解析されているのだそうだ。
その論文は発表されかけたが、「テロに利用される」との懸念から、アメリカ当局によって待ったがかけられている。
おって、1/20に、世界の科学者39人が、「H5N1」に関する研究を60日間停止すると言う声明を発表する。
抗議の意味ではないようだ。
このウィルスが、テロに利用されるのを恐れているからだ。
そして、コラムは「テロへの警戒と、人での大流行を防ぐ研究のバランスをどうとるか」と話を進めていく。
ここまで読んで、私は、「ああ、原子力研究のもつれと同じだ・・・」と思った。
すると、文章の後半に、やはり、原子力研究のジレンマへの言及があった。
・・・私は、原子力研究を…、原子力の平和利用を…、つまり、原子力発電をけしてやめてはいけないと考えている。
恐怖感に駆られつつも、したり顔で、「引き返さなくてはならないこともある」と脱原発を唱えるバカもいるが、そういうことをほざく者は、自分が…、と言うか、人類に限界があり、ひたすらに、諦めることを正しいと言ってるのと同じだ。
「諦めざるを得ない」と「諦める」は、その意味が全く違う。
そう、原子力発電は、今、まさに「風評被害」を受けている。
あれだけの大事故があったとされても、ただの一人も死者が出ていない、にもかかわらず、「絶対恐怖」のレッテルを根拠なく貼られてしまった。
かくして、原子力開発は、その研究をする事さえも「恐怖」の範疇に入れられ、
今後、数十年の「停滞」を余儀なくされよう。
しばらくは、「諦めざるを得ない」。
だが、研究だけは続けなくてはならない。
研究を続けなくては、今後、人類は永遠に原子力の恐怖を「克服」できなくなる。
「H5N1」ウィルスが、テロ(恐怖)に利用されようとも、それを意味のないことにする「ワクチン」の開発をするための研究だけは続けなくてはいけないようにだ。
◇
何やら、石原慎太郎が新党を作ろうと頑張っているが、私には、石原慎太郎にはバカなトコがあるし、第三局の中心にいる橋下弁護士も、私から見ると、非常に微妙だ。
自民党の議員の石原慎太郎の息子・伸晃は、「オヤジは利用されているのかも知れない・・・」と言っているそうだが、
石原慎太郎自身も、多分に、橋下・平沼赳夫らを利用していると思われるので、それはまあ、相互作用だ。
その慎太郎が、やはり、産経の一面で、いいコトを書いていた。
てゆーか、私が必死こいて主張し続けていることを、美しい流れで語ってくれている。
やっぱ、文章 上手いね。
《【日本よ】 石原慎太郎 「原発に関するセンチメントの愚」(2012.2.6)》
<・・・(前半略)・・・福島の原発事故以来かまびすしい原発廃止論の論拠なるものの多くの部分が放射線への恐怖というセンチメント(情念)に発していることの危うさだ。恐怖は何よりも強いセンチメントだろうが、しかしそれに駆られて文明を支える要因の原発を否定してしまうのは軽率を超えて危険な話だ。軽量の放射能に長期に晒(さら)される経験は人類にとって未曽有のものだけに、かつての原爆被爆のトラウマを背負って倍加される恐怖は頷けるが、しかしこうした際にこそ人間として備えた理性でものごとを判断する必要があろうに。理性的判断とはものごとを複合的に捉えてということだ。
ある期間を想定しその間我々がいかなる生活水準を求めるのか、それを保証するエネルギーを複合的にいかに担保するのかを斟酌計量もせずに、平和の内での豊穣な生活を求めながら、かつての原爆体験を背に原子力そのものを否定することがさながらある種の理念を実現するようなセンチメンタルな錯覚は結果として己の首を絞めることにもなりかねない。
人間の進化進歩は他の動物は及ばない人間のみによるさまざまな技術の開発改良によってもたらされた。その過程で失敗もありその超克があった。それは文明の原理で原子力もそれを証すものだ。そもそも太陽系宇宙にあっては地球を含む生命体は太陽の与える放射線によっても育まれてきたのだ。それを人為的に活用する術を人間は編み出してきた。その成果を一度の事故で否定し放棄していいのか、そうした行為は「人間が進歩することによって文明を築いてきたという近代の考え方を否定するものだ。人間が猿に戻ると言うこと−」と吉本隆明氏も指摘している。
人間だけが持つ英知の所産である原子力の活用を一度の事故で否定するのは、一見理念的なことに見えるが実はひ弱なセンチメントに駆られた野蛮な行為でしかありはしない。
日本と並んで原子力の活用で他に抜きんじているフランスと比べれば、世界最大の火山脈の上にあるというどの国に比べてももろく危険な日本の国土の地勢学的条件を斟酌せずにことを進めてきた原発当事者たちの杜撰(ずさん)さこそが欠陥であって、それをもって原子力そのものを否定してしまうのは無知に近い野蛮なものでしかありはしない。
豊かな生活を支えるエネルギー量に関する確たる計量も代案もなしに、人知の所産を頭から否定してかかる姿勢は社会全体にとって危険なものでしかない。>
◇
う〜む、隅から隅まで、私は首肯する^^
また、上記の主張の前半には、「・・・この世で恋愛は茶飯のことだから周囲はそれを常識の枠で捉え眺めて過ごそうとするが、ある人間にとってはそのセンチメントは枠からはみだして当人自身にも抑制がきかなくなってくる。・・・」などと言う表現もあって、うわぁ、うまい! と感嘆してしまうのだ。
人類は、「恐怖」と寄り添い、「克服」に至らなくてはならない。
(2012/02/07)