☆・・・私は、人造人間の存在意義を求めるのが、この作品の第一命題となんとなく考えていたので、
3時間近い大作ゆえに、予定が立たず、彼女と一緒に観ることはかなわず、先行して見た彼女に、私はふと「レプリカントに子供が出来たとか・・・?」と質問していた。
果たして、そこが物語の肝であった。
名作と呼ばれる『ブレードランナー』の続編のテーマを深化させていくと、そこに行きつく。
また、もう一つ、自己同一性と言うか、自分はなんなのか? と言う問題がある。
前作では、レイチェルは自分が人造人間と知らずに生活していたのだが疑問を持ち始め、犯罪レプリカントを追う主人公のデッカードもまたレプリカントなのだろうか、と言う主人公・見ている私たちを含めた自問を余儀なくされることが物語の基底にあった・・・。
すると、それに対しての返歌は、逆パターンとして提示が為されていた。
今回のブレードランナー”K”は、自分が人造人間であることを知っていて、分をわきまえていた。
が、与えられた仕事を捜査していくうちに、自分が人間なのではないかと言う疑問が沸き起こってくる。
このテーマの逆転は、あたかも、手塚治虫が『バンパイア』の中で、狼に変身する人間の種族・バンパイアが描かれた第一部に対し、第二部において、人間に変身できる動物・ウェコが提示されていたのと同根だ。
「ブレードランナー」前作では、世を牛耳るタイレル社のリーダーがレプリカントに殺されることによって、あたかも、手塚が示した「バンパイア革命」みたいな世界変革が為されようとしたが、「ブレードランナー2049」では世界が脅かされることはない。
タイレル社の継承社(者)・ウォレスは、世界を自由にし続けている。
が、無生殖であるはずの人造人間・レプリカントに子供が出来たとなると、世界のアイデンティティは消し飛び、レプリカントの存在は確固たるものになる。
・・・しかし、物語を終えると、少なくとも、ブレードランナー”K”の存在は、期待していただけに悲劇的な結末を迎える。
凄い作品なのは、更に、また、異なったテーマを見せてくれる。
ある意味、寂しい男のダッチワイフ的な存在となるAI”ジョイ”の存在だ。
この、ビジュアルの電脳美女(と言うか、美少女的な可愛さ)は、”K”の癒しであり、そして、恋人となる。
数年前に流行したペットロボット”AIBO”は、製造会社ソニーがメンテを打ち切ったことにより、いまだに大事にしていた各家庭で故障した際に「苦しみ」続け、各家庭では「悲しみ」に打ちひしがれているという。
私も、そのニュースを知り、哀しくなった。
日本は八百万の神の国で、モノにも神が宿り、当然に愛が宿る。
だから、「肉体を持たない人間」であるAI”ジョイ”との恋愛も、私自身 あり得ると考えるし、物語ではそれは必然のこととなる。
が、そのテーマは無残に終わる。
日本人から見ても端正な美少女である”ジョイ”、彼女は”K”を勇気づけてくれる。
「あなたは特別な存在なのよ」
だが、その、”K”が縋っていた言葉に現実は応えることはなく、また、”K”が縋っていた「縁(よすが)」である”ジョイ”も、あっけなく「消去」される。
「愛してる」の言葉を残して。
それはプログラミングなのか、愛なのか。
愛とプログラミングの違いなどはどうでもいい、とはせずに、監督のドゥニ・ヴィルヌーヴは、あえて、非情に感じさせる展開にさせた。
それは、デッカードを捕らえたウォレスが、死んだはずのレイチェルをデッカードに引き合わせ、デッカードが拒否した後に、無駄足と感じたウォレスがすぐにレイチェルを無惨に射殺するのでわかる。
それは、ジョセフ・コシンスキー監督が『オブリビオン』で示した、亡くした男から、そのクローンの男への愛の移行があり得ることを提示したことと相反する。
私は、異なった「現実」の提示に興奮した。
・・・傑作であった。
世界観も、製作費の低かった前作と比べるべきもなく、前作ともども素晴らしく、音楽も、「煽り」と「重圧」と「厳しい美しさ」に満ちていた。
私は、前作に思い入れがなく、この長い作品も見なくても良いと思っていたのだが、・・・ふう、見て良かった・・・。
(2017/12/05)
(2017/12/05)