☆・・・かなり多くのテーマを孕んでいるので、うまく語れないのだが、備忘録として書いておく。
先ず、エマ・ワトソンは作品を選んで出演しているなぁと感じた。
かなり特殊な、鋭い作品であったからだ。
「真綿で首を絞めていくような、新時代の地獄」を描いていた。
それは、ネット社会での、自分の行動を他者に認知(いいね!)して貰うという行動の帰結が、優越感とともにとてつもない息苦しさとして、背中合わせに存在することを言う。
サークル社は巨大なSNSを経営するとともに、ネット社会を生きるユーザーの多様なニーズに応えるべく、周辺コンテンツを開発していた。
それは、最終的には、「情報の共有(シェア)」に尽きる。
そして、主人公は、才能はあるのだろうが、ただただ、正職に就ける喜びの中でサークル社に入り、いつしか、自らの生活を24時間、ネットに公開するという会社の新コンテンツの旗手に祭り上げられてしまう。
精密かつ汎用性のあるカメラで、エマ・ワトソン演じる主人公の生活はあからさまにされる。
主人公は前向きに対応している。
そこには、もはや、プライバシーは存在しない(『トゥルーマンショー』を彷彿とさせられた^^;)。
ある意味、なんら後ろめたいことがなければ、自分の人生を曝してもいいじゃん、と言う理屈もある。
が、「潔白」な人生であっても、始終、多くの視線にさらされるのは息苦しくなる。
いや、例え、後ろめたいことをやっていようとも、それが法に触れていない限り、秘される権利はある。
これじゃあ、オナニーも出来ないぞ!!^^;
サークル社は、最終的には、政治への関与を指向する。
議員の中にも、自分の活動の透明性をあらわにしようとする流れも出てくる。
最終的には、サークル社の、加入者数が膨大なSNSで、選挙システムを肩代わりしようとする流れも出てくる・・・。
先ほど、「・・・新時代の地獄」と書いたが、サークル社の目指す「共有社会」が行きつく果ては、全ての情報が「村」に周知されるという旧石器時代のような世界になるのだろう。
そして、旧石器時代にはなかった「悪意と認定されない好奇心」が、多くの「村人」の人生を狂わせていく。
えっ? わたし? 私は自分がゴシップ好きゆえに、自分の生活も真摯に、赤裸々に語るほうであるが、無制限にプライバシーを曝すような真似はしない。
人間はどこかで「境界線」を引かなくちゃ自我を保てない。
そう、自我を捨て去ったときが、「人類補完計画」であり、虐殺塗れの「共産党革命」になっちゃうのである・・・。
(2017/11/11)