☆・・・先日、こんな一文を書いた。
《・・・長年 金銭トラブルに巻き込まれている常連が来店した。
私は言った。
「一連の経緯を文章にまとめることをお勧めする。自分の正しさを、正しいままに、事実に即して丹念に描いていけば、敵が無視しても、周囲から理解を得られ、相手が無視できないようにさせられるんじゃないのかな^^」...
「なるほど。アドバイス、ありがとうございます^^」・・・》
まあ、彼は、嘘つきに騙されたわけだ。
なんちゅうのかな、現在は、わりと、「嘘つき」がはびこることの出来ない時代になったと思う。
例えば、ネットとかで、上記の「金銭トラブル」であれば、事実経過を克明に発表できるので、相手に、公的な糾弾ができると思う。
今までのように、嘘つきが、小さなコミューンに引きこもり、そのまま自分に都合のいい嘘をシラーッとつき続けて安穏としていられる時代ではなくなった。
小さなコミューンの、その本人以外の人間が、「事実」を知ってしまうすべがインターネットメディアにはある。
テレビメディアでは難しかったダイレクトな公開がインターネットでは可能だ。
しかし、嘘つきと言うのは、うまい嘘をつき頭がいいと思われがちだが、嘘をつくことのリスクとそのプロテクトに甘いときがある。
その甘さが「愚か」と言うことである。
「病気」と言い換えてもいい。
嘘を見破った奴が、それを指摘すると、それを出来る立場にないのに、逆ギレしたりもする。
また、最後の最後まで、相手を騙せる段においては、レトリックを駆使して、少しの可能性でも嘘をつこうとし続けたりもする。
私たちは、映画『クヒオ大佐』などで、そう言ったおぞましい人間像を見ることができる(堺雅人主演^^)。
そうそう、浮気の証拠が厳然とあるのに決して認めない旦那さんのようにね。
そう言った人って、引き返すチャンスは幾らでもあるのに、結局、最悪のシナリオに突き進んでしまうのが世の常だし、
また、それでも逃げおおせて高笑いしているような奴には、制裁を加えるやつが現われるでしょう^^
丹念な「事実経過」のもつ「真実の物語」には、その場しのぎの嘘つきの言葉はひれ伏すしかなくなる。
・・・ほんじゃ、映画を一本観て、お店を開きますかね^^
(2015/06/03)