☆・・・かなりの美少女が拝めると聞き、いても立ってもいられなくて行ってきました。
お客さん、同好の士(ロリコン)が多いと思ったら、シアターフォーラムには、若い女性が多いのが目立ちました。
でも、確かに、これは、女性映画でした。
奔放に生き、家を空けがちな、常軌を逸した母親への愛を求め、少ない母親との時間を長くするために、ヴィオレッタは、母親の求めるままに、「少女美」を「芸術」として写真に収めさせていくのだ。
この作品の女性監督エバ・イオネスコの幼少の頃の実話で、当時は、世界的にセンセーションを巻き起こしたそうだ(私、少しだけ記憶に残っているような)。
多かれ少なかれ、子供には、このような母と娘の愛憎に共感できる点があると思う。
特に、私は、母親の趣味嗜好・生き方に翻弄され、それに戸惑いを感じつつも、子供であるが故に準じるしかない女の子の姿をよく見る・・・。
ヴィオレッタ役のアナマリア・バルトロメイは、激烈な美少女ではある。
演技も、言葉に頼らず、目で語る素晴らしさ!!!
その、小さな完璧性たるや、稀である。
だが、私はそこに、性的なエロスは感じなかった。
しかし、魅力はある写真だ。
故に、このキチガイ母の言う「芸術」は確かなのかもしれない。
この作品、当時10歳の少女を使っているので、その辺の直接的な表現はぼかしているのか・・・?
ただ、「少女の性」が喧伝されている作品であるが、そのような作品には、興味津々なれどストレスを溜める私でも、安心してみられる展開ではあった。
それは、この作品での「少女の性」が、肉体的なものを伴うものではないのと、少女を負の世界に導く母親が「肉体恐怖症」と言う、セックスを遠ざけた彼岸にいるからだろう。
だが、どんな異常者も、社会の一員だ。
社会の中での齟齬が、悲劇となる。
そもそもが、ヴィオレッタは、物語の冒頭からして、「ケンケンパ!」を一人遊びしているような子供である。
その子供が、母親を喜ばしたいが故に、セクシーポーズを意識し続けなくてはならない「落差」が、絶望的にリアルを宿す。
写真モデルとして、時間を経過した後も、ヴィオレッタは、床に転げながら、「友達と探検ごっこしたいのに〜!」と駄々をこねる(ちゅうか、駄々でなくて、子供としての当然の欲求)。
その子供としてのリアルと、相反するセクシーな姿・・・、それが、私の様な変態をちょっと「チンピク」させようぞ・・・^^;
ただね、ヴィオレッタ・・・、ちょっと完璧過ぎるんだよ。
この作品を、もっと強烈なものにするのなら、私は、主演には、ヴィオレッタの友人を演じた少女を使うね。
そう、この、ヴィオレッタの横に座っている子!
・・・この作品では、学校のシーンの数々も、衝突すべき「社会」を意味し、特筆である・・・。
この作品は実話であるが故に、実際の美少女に似た子を主演に据えているが、創作ならば、私は、この友人役の子のほうが、テーマの絶望を深めると思うのだ。
美少女は、少女の高次にあると思ったら大間違いで、少女とは、美少女とは異なる並列されるべきカテゴリーなのである。
故に、今作のアナマリア・バルトロメイは、その「美」が、作品テーマの絶望を阻害している。
つまり、どんな状況に至っても、アナマリア・バルトロメイの「美」が揺るがない、と言う点がである。
しかし、仮に、この友達をヴィオレッタに据えてみたら、可愛いが、その存在は揺るぎっぱなしになるだろう。
そこに、絶望が宿るのである。
変態は、そこに「チンピク」するのだ!
さて、この作品でのおばあちゃんのあり方である。
ちょっと、難しい・・・。
平凡で敬虔なクリスチャンであり、娘のやっていることを理解できないし、ひたすらにヴィオレッタに大過なきことを祈っている・・・、
が、無力であり、
作中でも、徐々に衰弱し、最後に、ちょっと意味不明な老衰を迎える。
これは、無力なヴィオレッタが、無力なりに、自分を示す起点になったか・・・。
・・・私は、無類のショートカット好きである。
物語の序盤で、ローラースケートを楽しむヴィオレッタが、編み込んだ長い髪を頭に巻き付けて、ショートカットなイメージで良かった。
だが、それは、「綺麗な髪をおろしなさい・・・」と、母親に命じられ、封じられる。
しかし、物語の終局、施設に収容されたヴィオレッタは、鮮烈なショートカットになっている。
「解放」の象徴なのである。
母親の訪問を聞くや否や、ヴィオレッタは脇目をもふらず、森へと「離脱」していく・・・。
なお、「汚れた血」や「ポンヌフの恋人」のドニ・ラヴァンを久しぶりに見れたのは懐かしきことだった・・・。
(2014/05/16)