☆実は、一昨日のエントリーはもうちょい長いはずだったのだが、眠気に負けてしまった。
続きを書く。
◇
これは何度も書いたことだが、以前、テレビを見ていたら、映画監督の井筒と言う人が、なんかの映画作品を評していて、「この作品は駄目だ。若者が主人公なのに、なんで反体制的じゃないんだ!」とか言っていて、私は辟易とさせられた。
この人にとっては、状況の良し悪しは関係なく、システムは常に反感の対象でなくてはならないのだな、と思った。
恐ろしいのは、おそらく、この言葉を聞いて、視聴者の7割がたが疑問を持たないだろう事実だ。
井筒監督と言うのは、戦後民主主義的な価値観に沿った作品(つまり、下卑たレベルのものさえ内包する「価値の多様性」の結果としての「無国籍」状況への移行を指向)の監督をしていて、それなりの良作を残しているようだ。
だが、それは、作品舞台が、その左翼的なテーマに合致しているに過ぎない。
私とて、そんな作品を批判するつもりはない。
だが、世の中の全ての事象が、そんな思考回路で裁けると思ったら大間違いだ。
そして、そんな作品に共感してしまった者が、そんな片寄った思考回路の人間に、自分の思考を左右されてしまうのも危険だ。
特に、芸術分野だと分かりやすいが、それに秀でた者が「正」であることは少ない。
ここで言う「正」とは、ちょいと照れくさいが、最大公約数が幸福である社会を求める気持ちだ。
「正」じゃない者の政治的な主張に惑わされることほど危険なことはない。
私など、D・リンチが大好きで、その才能に魅かれるが、D・リンチに道徳・正義を求めようとは思わない。
私は、アートSMの峰一也監督にも心酔していたが、ミネックに「狭義の純愛」を説いてもらおうとも思わない。
その辺の境界線は、絶対に誰もが持たなくてはならない。
その「状況の違い」が分からないならば、芸術もスポーツも政治も性事も語る資格はない、と言っておく。
◇
先ほどの「7割」と言うのは、私の勝手な憶測だが、「天才」の私が言うのだから合っている。
一昨年の衆議院選挙で民主党に投票した国民と重なる。
その「7割」がたの国民とは、ずばり、何も考えない愚民である。
マスコミ情報を、吟味せずに鵜呑みにする人々である(「一億総白痴化」極まれり)。
標語に騙されやすいバカであり、
その標語に見合う状況と、見合わない状況の違いが分からないバカである。
「標語に騙されやすいバカ」とは、「国民の生活第一」とか「政権交代」と笑顔で言われると、その具体的な状況及び、その状況が為されるにあたっての反作用の大きさを想像できない無知な者を言う。
「その標語に見合う状況と、見合わない状況の違いが分からないバカ」とは、
究極的には、それまでの政権の施政と、民主党政権下の施政の違いが理解できなかった、もしくは、いまだに理解できない人々である。
先の選挙に投票した反省を持たない人間である。
◇
で、私は、井筒監督のように決めつけたい。
「現在、最大公約数に幸福をもたらす<正>は、常に表層にはない。必ず、背後に封じられている。保守派は、ゆめゆめ、騙されるな!!!」
だって、国の決定は、7割のバカによって決定されちゃうからだ。
西尾幹二のバカなどは、反原発で通すそうだが、「水素爆発」の「芸術さ」に恐怖し、心を奪われ、怯え、楽な左巻きに逃げた。
まあ、この人は、元から「左」だ・・・。
くれぐれも、保守派たるもの、楽な言論サイドには逃げないで欲しい。
「正」は、多くの具体例・多くの可能性の綱渡りの果てに、か細く存在しているものだからだ。
◇
私は、この文章を、菅政権後のために書いている。
(今回も中途半端な内容だな・・・。 2011/07/09)
続きを書く。
◇
これは何度も書いたことだが、以前、テレビを見ていたら、映画監督の井筒と言う人が、なんかの映画作品を評していて、「この作品は駄目だ。若者が主人公なのに、なんで反体制的じゃないんだ!」とか言っていて、私は辟易とさせられた。
この人にとっては、状況の良し悪しは関係なく、システムは常に反感の対象でなくてはならないのだな、と思った。
恐ろしいのは、おそらく、この言葉を聞いて、視聴者の7割がたが疑問を持たないだろう事実だ。
井筒監督と言うのは、戦後民主主義的な価値観に沿った作品(つまり、下卑たレベルのものさえ内包する「価値の多様性」の結果としての「無国籍」状況への移行を指向)の監督をしていて、それなりの良作を残しているようだ。
だが、それは、作品舞台が、その左翼的なテーマに合致しているに過ぎない。
私とて、そんな作品を批判するつもりはない。
だが、世の中の全ての事象が、そんな思考回路で裁けると思ったら大間違いだ。
そして、そんな作品に共感してしまった者が、そんな片寄った思考回路の人間に、自分の思考を左右されてしまうのも危険だ。
特に、芸術分野だと分かりやすいが、それに秀でた者が「正」であることは少ない。
ここで言う「正」とは、ちょいと照れくさいが、最大公約数が幸福である社会を求める気持ちだ。
「正」じゃない者の政治的な主張に惑わされることほど危険なことはない。
私など、D・リンチが大好きで、その才能に魅かれるが、D・リンチに道徳・正義を求めようとは思わない。
私は、アートSMの峰一也監督にも心酔していたが、ミネックに「狭義の純愛」を説いてもらおうとも思わない。
その辺の境界線は、絶対に誰もが持たなくてはならない。
その「状況の違い」が分からないならば、芸術もスポーツも政治も性事も語る資格はない、と言っておく。
◇
先ほどの「7割」と言うのは、私の勝手な憶測だが、「天才」の私が言うのだから合っている。
一昨年の衆議院選挙で民主党に投票した国民と重なる。
その「7割」がたの国民とは、ずばり、何も考えない愚民である。
マスコミ情報を、吟味せずに鵜呑みにする人々である(「一億総白痴化」極まれり)。
標語に騙されやすいバカであり、
その標語に見合う状況と、見合わない状況の違いが分からないバカである。
「標語に騙されやすいバカ」とは、「国民の生活第一」とか「政権交代」と笑顔で言われると、その具体的な状況及び、その状況が為されるにあたっての反作用の大きさを想像できない無知な者を言う。
「その標語に見合う状況と、見合わない状況の違いが分からないバカ」とは、
究極的には、それまでの政権の施政と、民主党政権下の施政の違いが理解できなかった、もしくは、いまだに理解できない人々である。
先の選挙に投票した反省を持たない人間である。
◇
で、私は、井筒監督のように決めつけたい。
「現在、最大公約数に幸福をもたらす<正>は、常に表層にはない。必ず、背後に封じられている。保守派は、ゆめゆめ、騙されるな!!!」
だって、国の決定は、7割のバカによって決定されちゃうからだ。
西尾幹二のバカなどは、反原発で通すそうだが、「水素爆発」の「芸術さ」に恐怖し、心を奪われ、怯え、楽な左巻きに逃げた。
まあ、この人は、元から「左」だ・・・。
くれぐれも、保守派たるもの、楽な言論サイドには逃げないで欲しい。
「正」は、多くの具体例・多くの可能性の綱渡りの果てに、か細く存在しているものだからだ。
◇
私は、この文章を、菅政権後のために書いている。
(今回も中途半端な内容だな・・・。 2011/07/09)