☆ちょいと古い記事だが、とても共感できたので、転載し、コメントしたい。
《埼玉大学名誉教授・長谷川三千子 三次災害引き起こす「東電叩き」》
<≪渡河中の馬をしめ殺すのか≫
「河を渡ってゐる最中に馬を代へるな」といふ西洋の古いことわざがあるといふ。この「馬」を現首相にあてはめて、いまの時期、首相を交代させるべきではない、と言ふ人もあれば、いや、あまりの駄馬は代へるべきだと言ふ人もゐる。首相をどうすべきかといふ判断としては後者の言ひ分に軍配が上がるであらうが、一般論として言ふならば、渡河の最中に馬を代へるなといふ論にも理がある。すなはち、われわれが大きな困難に直面してゐるときには、わき目もふらず困難の克服に集中すべきだ、といふ教へとしてなら、これは傾聴すべき至言なのである。
その観点からふり返ると、この2カ月半ほど日本中に広まつてゐる「東電叩(たた)き」の現象はきはめて危険なのではないかといふ気がする。これはほとんど、渡河の中途で自分の乗つてゐる馬をしめ殺さうとするに等しいのである。
いまあらためて、今回の震災がわが国にもたらした困難のかたちをふり返ってみよう。一つは言ふまでもなく大地震と大津波がひき起こした一次災害−2万3850人もの死者・行方不明者、沿岸の街や工場や漁港、農地の壊滅的な被害−である。これ自体、戦後最大の、文字通りの「国難」であり、そこからの復興には、長く困難な道のりを歩まなければならないのであるが、それを更(さら)に困難にしてゐるのが、そこから生じた二次災害である。すなはち、被災した福島第1原発において、原子炉を冷却する機能が失はれ、大量の放射性物質がもれ出し飛散して、周辺が汚染された。しかもこれは、いまだに現在進行形の危険として、周辺の人々に避難をよぎなくさせてゐるのである。
≪地震恨めぬ鬱憤原発へ向かう≫
このやうな状況において、人々の恨みや怒りが福島第1原発の所有者である東電に向かふのは、無理もないことである。この事故は別に東電がわざわざひき起こしたのではない。定められたとほりの安全設備はほどこしてゐたけれども、力及ばず地震と津波にやられてしまつたのだ、などといふ話は人々の耳には入らない。なんでもつともつと頑丈につくらなかつたのか、なんでもつと機敏に対処しなかつたのか、原発は安全だと言つてゐたではないか、あれはウソだつたのか−人々は口々にさう言ひつのる。そして心理といふ観点からすれば、それはごく自然なことなのである。地震そのものについては、人は誰を恨むこともできない。しかし二次災害については(当否はともかく)恨むことのできる相手が目の前にゐる。「東電叩き」はほとんど必然的に起こつたものと言へよう。
しかし、現にこの二次災害を抑へるといふ課題にとつて、「東電叩き」は少しも役に立たない。まさにその災害を抑へる作業にたづさはつてゐるのが、東電自体であり(危険な現場で頑張つてゐる)東電職員なのだからである。或(あ)る老エンジニアは、このさまを見てかう語つてゐる−「リスクのある作業に従事するには、それを皆が応援しているという心の支えが非常に重要だと思う。現在、作業に当たっている人にそうした支えがないことが問題だ」。つまり、福島第1原発に不安をもつ人であればあるほど、「ガンバレ東電」と叫ばなければならないのに、実情は逆になつてしまつてゐるのである。
≪つぶれていいとの路線は危険≫
そればかりではない。もつとはるかに実質的なところでも「東電叩き」の風潮は、われわれが国難を切り抜ける上での重大な障害をもたらす危険をはらんでゐる。
ここしばらく、国会でも論じられてきたのが、福島第1原発による放射能汚染被害に対する賠償をどうするか、といふ問題である。これについては「原子力損害の賠償に関する法律」といふものがあつて、かうした場合の事業者の賠償責任を定めてゐる。しかしそこには「ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるときは、この限りでない」とつけ加へられてゐて、ごく普通に考へれば、千年に一度の大震災によつて生じた「原子力災害」については当然、賠償は免責されるだらうと思はれる。ところが政府は、今回の事故はこのただし書きにはあたらないといふ判断を示し、他方で、賠償には限度を設けないと宣言した。
これはどういふことかと言へば、一民間企業に、いはば無限の出費を負はせるといふことである。たしかに政府は、この法律にも定められてゐる「必要な援助」を約束してゐるが、それは国会の論議次第ではいくらでも縮小しうる。つまり政府は東電がつぶれてもよいといふ路線を走り始めてゐるのである。またそれを歓迎する意見もあちこちに見られる。
しかし、電力の安定した供給を断たれたら復興は不可能となり、国民生活全体がもう一度危機を体験することになるのを忘れてはならない。いはば甚大な三次災害がひき起こされるのである。政府も国民も目を見開いて、渡河中の馬を殺さぬやうに気をつけよう。(はせがわ みちこ)>
◇
・・・「河を渡ってゐる最中に馬を代へるな」ということわざがあり、
このことわざは、菅直人の退陣論に対し、それを制する為によく使われるが、
先ず、長谷川女史は、そのことわざには、大事な内容が含まれているが、ことわざ自体が十全に機能する個別の具体例があるんじゃないの、と語っている。
果たして、菅政権には、このことわざが当てはまるのか?
少なくとも、長谷川女史は、原発事故収束に努力している東電には、上記のことわざはあてはまると言い、その理屈を語ってくれている。
私は、何度も何度も、このブログで「標語に騙されるな」と言っているが、
それは、標語単体ならば正しい内容も、果たして、個々の具体例にはあてはまらない、と言っている。
ましてや、表面化する問題は、得てして、「例外」によって起こるからだ。
私がよく言う極端な例だが、連続殺人犯がいて、その殺人犯に「一つのことに集中するのはいいことだ!」と賞賛のことわざを向けることと同じである^^;
・・・二つ目の副題の「地震恨めぬ鬱憤原発へ向かう」は、まさしく、その通りだろう。
そこには、何の冷静な判断基準もなく、怒りの捌け口や、恐怖感を、被害者でもあり、加害者でもある、けれどもやはり被害者でもあり、疲弊しきっている「東電」に罵詈雑言を浴びせて、鬱憤を晴らしているに過ぎない。
真っ当な判断基準をもたないバカが幾ら叫ぼうが、害(三次、四次災害)にしかならない。
東電による賠償問題についての危惧は、私がこれまで繰り返してきたことと同じである。
なかなか、現状で、東京電力に対して、真に冷静な意見を主張出来る人は少ないので、私は非常に感動した次第。
(2011/06/11)
《埼玉大学名誉教授・長谷川三千子 三次災害引き起こす「東電叩き」》
<≪渡河中の馬をしめ殺すのか≫
「河を渡ってゐる最中に馬を代へるな」といふ西洋の古いことわざがあるといふ。この「馬」を現首相にあてはめて、いまの時期、首相を交代させるべきではない、と言ふ人もあれば、いや、あまりの駄馬は代へるべきだと言ふ人もゐる。首相をどうすべきかといふ判断としては後者の言ひ分に軍配が上がるであらうが、一般論として言ふならば、渡河の最中に馬を代へるなといふ論にも理がある。すなはち、われわれが大きな困難に直面してゐるときには、わき目もふらず困難の克服に集中すべきだ、といふ教へとしてなら、これは傾聴すべき至言なのである。
その観点からふり返ると、この2カ月半ほど日本中に広まつてゐる「東電叩(たた)き」の現象はきはめて危険なのではないかといふ気がする。これはほとんど、渡河の中途で自分の乗つてゐる馬をしめ殺さうとするに等しいのである。
いまあらためて、今回の震災がわが国にもたらした困難のかたちをふり返ってみよう。一つは言ふまでもなく大地震と大津波がひき起こした一次災害−2万3850人もの死者・行方不明者、沿岸の街や工場や漁港、農地の壊滅的な被害−である。これ自体、戦後最大の、文字通りの「国難」であり、そこからの復興には、長く困難な道のりを歩まなければならないのであるが、それを更(さら)に困難にしてゐるのが、そこから生じた二次災害である。すなはち、被災した福島第1原発において、原子炉を冷却する機能が失はれ、大量の放射性物質がもれ出し飛散して、周辺が汚染された。しかもこれは、いまだに現在進行形の危険として、周辺の人々に避難をよぎなくさせてゐるのである。
≪地震恨めぬ鬱憤原発へ向かう≫
このやうな状況において、人々の恨みや怒りが福島第1原発の所有者である東電に向かふのは、無理もないことである。この事故は別に東電がわざわざひき起こしたのではない。定められたとほりの安全設備はほどこしてゐたけれども、力及ばず地震と津波にやられてしまつたのだ、などといふ話は人々の耳には入らない。なんでもつともつと頑丈につくらなかつたのか、なんでもつと機敏に対処しなかつたのか、原発は安全だと言つてゐたではないか、あれはウソだつたのか−人々は口々にさう言ひつのる。そして心理といふ観点からすれば、それはごく自然なことなのである。地震そのものについては、人は誰を恨むこともできない。しかし二次災害については(当否はともかく)恨むことのできる相手が目の前にゐる。「東電叩き」はほとんど必然的に起こつたものと言へよう。
しかし、現にこの二次災害を抑へるといふ課題にとつて、「東電叩き」は少しも役に立たない。まさにその災害を抑へる作業にたづさはつてゐるのが、東電自体であり(危険な現場で頑張つてゐる)東電職員なのだからである。或(あ)る老エンジニアは、このさまを見てかう語つてゐる−「リスクのある作業に従事するには、それを皆が応援しているという心の支えが非常に重要だと思う。現在、作業に当たっている人にそうした支えがないことが問題だ」。つまり、福島第1原発に不安をもつ人であればあるほど、「ガンバレ東電」と叫ばなければならないのに、実情は逆になつてしまつてゐるのである。
≪つぶれていいとの路線は危険≫
そればかりではない。もつとはるかに実質的なところでも「東電叩き」の風潮は、われわれが国難を切り抜ける上での重大な障害をもたらす危険をはらんでゐる。
ここしばらく、国会でも論じられてきたのが、福島第1原発による放射能汚染被害に対する賠償をどうするか、といふ問題である。これについては「原子力損害の賠償に関する法律」といふものがあつて、かうした場合の事業者の賠償責任を定めてゐる。しかしそこには「ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるときは、この限りでない」とつけ加へられてゐて、ごく普通に考へれば、千年に一度の大震災によつて生じた「原子力災害」については当然、賠償は免責されるだらうと思はれる。ところが政府は、今回の事故はこのただし書きにはあたらないといふ判断を示し、他方で、賠償には限度を設けないと宣言した。
これはどういふことかと言へば、一民間企業に、いはば無限の出費を負はせるといふことである。たしかに政府は、この法律にも定められてゐる「必要な援助」を約束してゐるが、それは国会の論議次第ではいくらでも縮小しうる。つまり政府は東電がつぶれてもよいといふ路線を走り始めてゐるのである。またそれを歓迎する意見もあちこちに見られる。
しかし、電力の安定した供給を断たれたら復興は不可能となり、国民生活全体がもう一度危機を体験することになるのを忘れてはならない。いはば甚大な三次災害がひき起こされるのである。政府も国民も目を見開いて、渡河中の馬を殺さぬやうに気をつけよう。(はせがわ みちこ)>
◇
・・・「河を渡ってゐる最中に馬を代へるな」ということわざがあり、
このことわざは、菅直人の退陣論に対し、それを制する為によく使われるが、
先ず、長谷川女史は、そのことわざには、大事な内容が含まれているが、ことわざ自体が十全に機能する個別の具体例があるんじゃないの、と語っている。
果たして、菅政権には、このことわざが当てはまるのか?
少なくとも、長谷川女史は、原発事故収束に努力している東電には、上記のことわざはあてはまると言い、その理屈を語ってくれている。
私は、何度も何度も、このブログで「標語に騙されるな」と言っているが、
それは、標語単体ならば正しい内容も、果たして、個々の具体例にはあてはまらない、と言っている。
ましてや、表面化する問題は、得てして、「例外」によって起こるからだ。
私がよく言う極端な例だが、連続殺人犯がいて、その殺人犯に「一つのことに集中するのはいいことだ!」と賞賛のことわざを向けることと同じである^^;
・・・二つ目の副題の「地震恨めぬ鬱憤原発へ向かう」は、まさしく、その通りだろう。
そこには、何の冷静な判断基準もなく、怒りの捌け口や、恐怖感を、被害者でもあり、加害者でもある、けれどもやはり被害者でもあり、疲弊しきっている「東電」に罵詈雑言を浴びせて、鬱憤を晴らしているに過ぎない。
真っ当な判断基準をもたないバカが幾ら叫ぼうが、害(三次、四次災害)にしかならない。
東電による賠償問題についての危惧は、私がこれまで繰り返してきたことと同じである。
なかなか、現状で、東京電力に対して、真に冷静な意見を主張出来る人は少ないので、私は非常に感動した次第。
(2011/06/11)