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Channel: 『甘噛み^^ 天才バカ板!』 byミッドナイト・蘭
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[あらすじで読む『坂の上の雲』 ・・・運命の海・日本海!!!]

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☆NHKスペシャル大河ドラマ便乗再掲!!

   [あらすじで読む『坂の上の雲』 第8回・・・]

 以下は、昭和47に発刊された『文藝春秋・臨時増刊<「坂の上の雲」と日露戦争>』に載せられた「ダイジェスト 坂の上の雲」である。

 あの長大な文庫(全8巻)の大叙事詩を、うまくまとめている^^

 私は、これより、そのダイジェストを転載しようと思う。

 約40年前の雑誌記事であり、著作権上、そう問題にはならないと思われるが、何か抗議があった場合、即やめる^^;

 また、元の文章の雰囲気を壊さない程度に、たまに私が文章を変えたり、意味が分かりにくいところには、文章の付け足しを行なうかも知れない。あしからず・・・。

 それから、私は、「あらすじで読む名作」といった類のものを批判する立場の者であるが、今回、こうして、前言を翻して試みに行なっているわけで、批判は甘んじて受けよう・・・。

   ◇

 ▼ここ十年、山本権兵衛の念頭をロシア海軍が離れたことはない。

 常にそれを仮想敵として日本海軍を作りあげてきた。

 彼は1セットの艦隊を揃えたが、その主力艦は英国製の新品揃いで、ロシアの主力艦に比べて性能の点で優れていた。

 山本は兵器の性能の信奉者であり、その優劣が戦いの勝敗を決すると言う点で、どの文明国の海軍指導者よりも近代主義者であった。

 しかし、日本軍が1セットの艦隊しか持たないのに対し、ロシア海軍は2セットの艦隊を持っていた。
一つは極東(旅順・ウラジオストック)にあり、一つは本国(バルチック)にある。この二つが合わされば、日本海軍は到底勝ち目がない。

 山本権兵衛総裁による日本海軍の戦略は、ロシアの海軍力が合体せぬまに、まず極東艦隊を沈め、ついで本国(バルチック)艦隊を迎えて、これを沈めるというところにあった。

 各個撃破である。

 ロシアの極東艦隊と日本の1セットだけの艦隊とは、ほぼ同兵力である。

 山本権兵衛としては、この艦数、総トン数の対比を、日本がやや優勢、というところまでもってゆかねばならなかった。

 海上決戦は、性能と数字の戦いである。敵よりも優勢な数量をもってあたれば戦果が大きいだけでなく、味方の損害も少なくて済む。

 その為、日本海軍は海戦ぎりぎりの時期に、更に二隻の準戦艦を買い取った。「日進」と「春日」がそれである。

 東郷平八郎の連合艦隊は、乃木軍の旅順要塞攻略中、ずっと洋上から旅順港を封鎖し、港内のロシア艦隊が外に逃げださぬ様にしてきた。

 開戦以来十ヶ月、洋上で全兵力が浮かびっぱなしであった。艦は疲れ、兵の疲労もはなはだしい。

 その間、敵のバルチック艦隊が刻々近づいていることが、東郷以下の焦燥になっていた。敵の大艦隊が来襲するまでに、艦をことごとく佐世保においてドック入りさせる必要があった。

 この為、海軍から岩村・伊集院という二人の参謀を連絡将校として乃木軍司令部に派遣していた。

 その二人からの連絡で旗艦「三笠」の首脳部は、陸軍の戦況とその経過を詳しく知ることができた。

「児玉大将が南下し、乃木軍司令部に入った」

「主攻撃を二○三高地に転換」

 と言うことも知った。転換してほどなく二○三高地が陥ち、その山頂に観測所が設けられた。そして、旅順港内のロシア艦隊を次々に撃沈し始めた報告があったとき、

「それは良かった」

 東郷は小さく頷いた。

 ▼「三笠」以下、東郷の艦隊は、その根拠地であった裏長山列島を離れ、第一艦隊は呉へ、第二艦隊は佐世保に入った。

 東郷と上村第二艦隊司令長官は東京に戻った。新橋停車場を降りると、数万の群衆が押しかけて、彼らを歓迎した。

 両人は、宮内省からさしまわされた馬車に乗って登営したが、幕僚たちはそのまま海軍省へ行った。秋山真之もその一人であった。

 真之は日没後、青山高樹町の新居に戻った。

 そこに、去年の七月に娶った妻のすえ子が夕食の支度をして待っていた。

 真之は毎日、好物の炒った空豆をかじり、仰向けに寝転がって天井ばかり眺めて暮らした。真之が眺めている天井は、すえ子にとってはただの天井だが、真之にとっては、そこに正確無比な日本列島があった。

     【バルチック艦隊は、どこをどうくるか・・・?】

 という課題が、日本国そのものの存亡にかかっていた。

 日本の太平洋岸をまわって、遥か北方からウラジオストックに入るか、それとも日本海を通過するか、そのことは、バルチック艦隊司令長官であるロジェストウェンスキーと神のみが知っていることであった。

 ただし、バルチック艦隊がやってきてからの作戦は、全て真之の仕事である。

 至上命令として要求されていることは「勝つ」という簡単なことではなかった。

 敵を一艦残らず沈めるという、世界戦史上かつてない要求が、連合艦隊を拘束しているのである。

 三艦四艦が生き残ったりしてウラジオストックへ遁走させれば、それが日本の海上輸送の大脅威になって満州における陸軍の死活問題になる。

 ▼世界中が、この海戦のなりゆきを見守っていた。

 例えば、この五月の十九日付で刊行された英国の雑誌「エンジニアリング」は、来たるべき日露海戦が、如何に注目すべき世界史的事件になるかを論じている。

「来たるべきこの海戦、その影響するところのものは、史上かつてない大きさになるだろう」

 ▼日本海軍の不安は頂点に達しようとしていた。

 旗艦「三笠」は、鎮海湾の底に錨を下ろし、白っぽい海面に抉ったように濃い暗緑色の影をおとしていた。三笠の吃水線がいつもより沈んでいるのは、石炭を満載して上甲板まで積み上げているためであった。

「敵が太平洋をまわる公算大」

 という秋山真之ら艦隊幕僚の不安が、この石炭満載の景況を生み出したのである。

 敵が、その不幸な(東郷艦隊にとって)コースをとれば、大急ぎで日本海を北上して青森県の日本海沖で待ち伏せする為の燃料であった。

 真之の心は、この時期乱れ続け、敵のコースを予測するについて不動の判断というものがなかった。
彼のこのときの神経と頭脳の極度の疲労が、その後の短い余生をずっと支配し続けるのだが、この時期の懊悩ぶりは、後の行動に常軌を失わせるのだった。

 彼は、靴をはいたまま眠った。

 彼の上司である加藤友三郎参謀長が、

「そんなことをしていては体がもたない」

 と、見かねて忠告したが、真之は、その加藤の顔をじっと見つめているだけで、加藤の言葉が耳に入らないようであった。

「いっそ、能登半島の沖で待ってはどうか」

 と言い出す若い参謀もいた。

 能登半島なら、敵が北に回ろうが、南から来ようが、ちょうど真ん中になって両端いずれに駈けてゆこうとも便利である。

 ▼バルチック艦隊のロジェストウェンスキーが、

「対馬へ」

 という運命的な針路を艦隊に取らしめたのは、五月二十五日午前九時、細雨の中においてであった。

 艦隊は五ノットの低速で進み、ときに八ノットになることもあったが、すぐ信号によって五ノットに戻した。

 二十五日午後五時三十分、旗艦「スワロフ」のマストに信号機が上がった。

 明二十六日から、日本の哨戒海域に入るからである。この二十五日夜はずっと五ノットという低速で艦隊は航進した。

 この低速は、ロジェストウェンスキーが、彼の好む時間に東郷と遭いたいという時間調整のためのものであった。

 もっとも他に機関管理上の理由もある。

 一つには戦闘を前にして汽かんを焚くかん部員の疲労を取っておきたかったこと、また、いよいよ戦闘になる場合に備えて石炭を節約しておくといったものであった。

 ▼東郷の連合艦隊は、三つの艦隊に区分されていた。

 第一艦隊は東郷がこれを直率し、「三笠」以下四隻の戦艦のほかに、装甲巡洋艦「春日」「日進」、それに通報艦一隻が加わっている。

 この時代の決戦は、戦艦の巨大な砲力と防御力が担当すると言うのが常識であった。

 この場合、春日と日進が問題であった。

 両艦は装甲巡洋艦でありながら、戦艦の代用をさせられていた。ただし、この両艦には戦艦に準ずるだけの攻防力があると認められていたので、いわば無理をおして第一艦隊第一戦隊という戦術単位に組み込まれている。

 このため、彼らは決戦場では戦艦についてゆく為に随分苦労をした。

 この第一艦隊は、朝鮮南東海岸である加徳水道に艦影を浮かべていた。

 他に、この加徳水道での待機組には、第二艦隊の主力もまじっている。

 その主力は第二戦隊であった。

 旗艦「出雲」以下六隻の装甲巡洋艦と一隻の通報艦で成り立っている。

 他に、第二艦隊の第四戦隊も加徳水道にいた。第四戦隊は「浪速」を旗艦とする四隻の巡洋艦戦隊である。

 この加徳水道の奥に鎮海湾がある。そこには旗艦三笠だけが仮泊していた。

 陸上との連絡の便の為であり、もし出動するとすれば最後尾から走って最先頭に立つという運動をせねばならぬであろう。

 第三艦隊は、司令長官が片岡七郎で、旗艦は二等巡洋艦「厳島」である。

 その主力は第五戦隊であり、「厳島」「鎮遠」「橋立」「松島」などで、いずれも日清戦争当時には花形の主力艦であったが、今は艦齢も性能も老いてしまっていた。

 この第三艦隊の大部分が対馬付近で待機し、特に快速をもった第六戦隊「須磨」「和泉」「秋津洲」「千代田」といった二、三等巡洋艦などや、第一艦隊第三戦隊の二等巡洋艦「笠置」以下四隻の各艦が、それぞれ哨戒担当区域を密度高く巡航し、敵が対馬コースに出現する場合にいちはやく発見しようと努めていた。

 また他に、「付属特務艦隊」と言うものがあった。

「台中丸」を旗艦とする大小の汽船で編成されている。

 全部で二十四隻で、そのうち十隻は仮装巡洋艦である。それらはすべて哨戒任務にあたっていた。

 このうち「信濃丸」という艦があった。

 二本マストに高い一本煙突をもち、総トン数六三八七トンの鋼船で、大佐・成川揆が艦長として指揮し、連日、そのひょろ高い煙突から煙を吐きつつ、四月九日以来ずっと所定水域を遊弋していた。

 信濃丸は長崎五島列島の白瀬という小島の沖を北東に進んでいた。

 この五月二十六日夜が更けてから浪が高くなった。

 二十七日の午前二時ごろになると南西の風が相当激しくなり、見張りをする者たちはマストやロープに鳴る風に声を吹きちぎられて、よほどの大声を張り上げなければ、ついそばの者にも意志を伝えることが出来なかった。

 霧も濃くなった。

 午前二時四十五分、ブリッジでまどろんでいた艦長・成川揆は、誰かに声をかけられ、飛び起きた。

 船橋は、重い沈黙が支配していた。誰もが叫びだしそうな衝動をこらえつつ、左舷の闇の中にポツンと浮かび上がった燈火を凝視していた。

     【バルチック艦隊、ではないか・・・】

 と、誰もが一様にその疑念をもった。

 これが、バルチック艦隊の病院船「アリョール」(偶然にも戦艦アリョールと同じ名)であることは、この瞬間の信濃丸にはむろん分からなかった。

 バルチック艦隊においては、この夜間航海にあたって全艦隊に無燈火を命じた。無電も禁止した。

 ところが、病院船アリョールのみは、同船の不注意によるものか、それとも理由があってのことか、無燈火の命令に従っていなかった。

 その燈火の正体を知るべく、成川大佐は接近を命じた。

 接近して、備砲がないことを知った。

 ところが相手は、信濃丸を僚船と見たらしく、電気燈を点滅させて信号を送ってきた。

「こっちを仲間だと思っている」

 と、成川は言った。とすれば、どこかに相手方の僚船がいるという証拠である。

 つまり、艦隊ではないか・・・。

 信濃丸の全ての乗員が、目を皿にして八方を見た。

 しかし、海上からの霧が深く何も見えなかった。

 成川は、相手の船を停戦させて臨検しようと思った。

 彼は、先ずボートのおろし方の準備を整えさせた。

 ・・・と、このとき、にわかに夜が白んだ・・・。

 誰かが叫んだ。

 驚くべきことに、信濃丸はバルチック艦隊の真っ只中にいることを知ったのである。

 大小の無数の軍艦が煤煙を吐きつつ、それぞれが巨城のごとく海面に横たわり、やぐらを上げ、白波を蹴り、ひた押しに北東に向かって進んでいるのである。

 成川は船橋にいる士官たちに言った。彼自身気づかないことだったが、口調が漢文調になっていた。

「不意なるかな、すでに我々は死地に入った。全力を持って脱出を試みるも、あるいは能わざることあるべし。その時こそ、この船、非力ながらも敵の一艦を求め、激しく衝撃して、ともに沈むべし」

 ただ、この発見を鎮海湾の東郷閣下に報らせなければならない、と成川は言った。

「船が浮かんでいる限りは送信を続けるのだ」

 と言うと、転舵一杯を命じた。

 船は傾ぎ、波が右舷に盛り上がって、たちまち甲板を洗い、やがて左舷のほうへ滝のように流れ落ちた。

 船は離脱すべく全速力を出した。

 と同時に、

「敵艦隊見ゆ」

 との電波が、四方に飛んだ。

 この付近のことを、海軍ではあらかじめ二○三地点としておいた。この電信は正確に言えば、

「敵の艦隊、二○三地点に見ゆ。時に午前四時四十五分」

 であった。

                                    <続く>

                                                      (2011/12/18)

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